Murray Rothbard *For a New Liberty*
最初の数章しかよんでない
(カーティス・ヤーヴィンがロスバードを勧めていたのでちょっと読んだ)
功利主義と社会ダーウィニズム的な漸進主義を受け入れたことで、自由市場の支持者はかつての急進的な性格を失って、その論敵によく言われるように現状維持的になってしまった、という不満を述べている
(ベンサムとJ.S.ミルは選挙法改正運動に参加していたしEnglish Radical と呼ばれていた気がするが彼らは急進的ではなかったか)
現状維持的、現実主義的(気取り)などの新自由主義者に対するステレオタイプ的なイメージは変だと思っていたけど、ロスバードからみてそうだったならまあ (少なくともこのときは) 正しかったってことか
ロスバードはそういうタイプの自由市場支持者とは別の議論をしたかったらしい
ayu-mushi.icon経済的自由がなければ、個人的自由も実質的には意味を持たないというとき、そこでの個人的自由の概念は積極的自由のような概念になっていないか (追記: コーエン『自己所有権、自由、平等』(Google Booksで最初だけ読んだ)は、もし自然物がすべて共同所有になったら、みんなの許可なしには何もできなくなるから実質的には自由でない、というリバタリアンの意見は正しいが、そこでそういう自己の身体の自己所有権にとどまらない自由の概念を持ち出すなら、その概念においては所有物が少ない貧しい人もその意味における自由が少ないということも認めるべき、みたいに論じていた)
Gordon Tullock has argued Hayek's analysis incorrectly predicted governments in much of Europe in the late 20th century would descend into totalitarianism. He uses Sweden, in which the government at that time-controlled 63 percent of GNP, as an example to support his argument that the basic problem with The Road to Serfdom is "that it offered predictions which turned out to be false. The steady advance of government in places such as Sweden has not led to any loss of non-economic freedoms." While criticizing Hayek, Tullock still praises the classical liberal notion of economic freedom, saying, "Arguments for political freedom are strong, as are the arguments for economic freedom. We needn’t make one set of arguments depend on the other."
スウェーデンには経済的自由はないけど政治的自由があり、シンガポールには経済的自由はあるけど政治的自由はない?
中絶、安楽死、戦争、死刑を、すべて生命をうばうという理由で反対する(culture of life)
In Capitalism and Freedom (1962), Friedman further developed Friedrich Hayek's argument that economic freedom, while itself an extremely important component of total freedom, is also a necessary condition for political freedom. He commented that centralized control of economic activities was always accompanied with political repression. In his view, voluntary character of all transactions in a free market economy and wide diversity that it permits are fundamental threats to repressive political leaders and greatly diminish power to coerce. Through elimination of centralized control of economic activities, economic power is separated from political power, and the one can serve as counterbalance to the other. Friedman feels that competitive capitalism is especially important to minority groups, since impersonal market forces protect people from discrimination in their economic activities for reasons unrelated to their productivity.25 Galbraith defined the actions of the industry lobby groups and unions as countervailing power.
John Miller further observes that Hong Kong and Singapore, both only "partially free" according to Freedom House, are leading countries on both economic freedom indices and casts doubt on the claim that measured economic freedom is associated with political freedom.37 However, according to the Freedom House, "there is a high and statistically significant correlation between the level of political freedom as measured by Freedom House and economic freedom as measured by the Wall Street Journal/Heritage Foundation survey."41 経済的自由を妨げれば必然的に他の諸自由も妨げることになるという議論は「結合論証」と呼ばれ、…
mother of all other liberties
理屈上はある自由を促進することが他の自由を妨げるということも考えられると思うけどね
ayu-mushi.icon「自己所有権」として市民的自由も外的な物の所有権と同種のもの (自己の身体の所有) とみなすことは、外的な物の所有権と市民的自由を結びつけて考えるリバタリアンの考えを押し出すレトリック (?) なのかな
同種のものとみなすのみならず、ダメ押しで自己の身体の所有権から物の所有権も導かれるかのように言って、物の所有権と市民的自由の結びつきを主張してる
ここでは因果的な結びつきではなく、概念的な結びつき
1) 経済的自由を妨げると市民的自由も妨げられる(因果的つながり)
2) 経済的自由と市民的自由は同種のものである(概念的つながり)
3) 経済的自由 (外的なものの所有権) は市民的自由 (自己の身体の所有) から派生する (概念的つながり?)
物の所有権と共通のものという含みがないなら、市民的自由を自己所有権として扱わなくてもいいのでは
いや、どうだろう
思いつく「自由権だけど自己所有権から導けない例」はプライバシー権くらいだった
肖像権、名誉に関する権利、忘れられる権利 →自由権かもしれないしそうでもないかも
自己の身体の自己所有権とモノの取得の間にはギャップがあるし、それくらいの飛躍を認めていいんだったらプライバシー権や肖像権、名誉に関する権利、忘れられる権利とかだって自己所有権から導かれると言いはることは可能では
モノに労働を混ぜると自分のものになるという理屈を自己所有権から認めていいなら、自分が被写体になっている情報を管理する権利なども自己所有権から派生すると言い張ることは可能では
プライヴァシー権はどちらかというと、個人情報を与えると他の権利侵害が容易になるという道具的な役割なんじゃないの
隠す場所がなければエロ本も政治的にセンシティブな本も買いにくいわけだし、単に監視すると権利侵害しやすいというだけではないか
言論の自由: 話し言葉と騒音の区別は物理的な侵害度合いではなく心的状態に訴えて区別する必要があるかもしれない。ところが、心的状態は言葉の内容によって影響されるため、侵害度合いの基準として心的状態に訴える場合、自己所有権だけでは言葉の命題内容に基づいた規制を原理的には排除できないのではないでしょうか。
市民的自由にも物の所有権にも概念的に共通する因子があるということは単なるレトリック以上に たしかではありそう
肉体改造の自由とか性的自由とか薬品投与の自由とかを根拠づける場合は自己所有権に訴えてる気がする
単に選択肢が多いほうがいいというだけだと、誰に権利が帰属するのかはわからないので
non aggression principle はそれだけだと何が危害なのかあんまり明らかじゃない (寝ている間にこっそり他人のものを盗んで気づかれなかった場合は危害なのか? 愛の告白を断ることは? 浮気は? 離婚は?) ので、自己所有権概念は何が危害なのかということの一つの具体化になってるという意味では良い気がする
J.S.ミル『自由論』では、価格設定の自由とか自由競争とかの経済的自由の根拠は、自分が『自由論』で論じる自由の根拠とはべつだ、と言っている (ただし、消費者行動の自由に関しては、『自由論』の自由の概念から支持される、と言っている。)
ミルの危害原理の危害は、積極的な行為によるものだけではなくネグレクトや助けないことのような消極的な危害も含んでいるため、危害原理から価格設定の自由、自由競争は言えないっぽい
つまり、自分のものなんだからいくらで手放すかは自分で決める権利があるとか、人は特定の顧客に自分と取引することを強いる権利を持っているわけではないので競合企業に顧客を「奪われて」も文句を言うことはできないとかいった話は危害原理とは無関係
なので、ミルの危害原理 harm principle とリバタリアンの無危害原理 non-agression principle は違う
ayu-mushi.icon労働所有論、効率性の観点からするとダメでは (ロスバードからすれば効率性なんて権利に比べればどうでもいいと言われるかもしれないけれど)
無主物を取得するためだけに無駄な労働が起こる可能性があるのでは?
無主物の所有権をランダムに人々に割り当てるとかのほうが効率性の観点からすると望ましいのでは?
そうでもないか。Harberger Tax - Wikipediaがあればどのような財産分配からスタートしても土地の所有権がもっとも生産的な利用に配置されると考えられるけど、そういうのがない場合は、「初期配置はどうでも取引を通じて最適な分配になるだろう」というのは成り立たないか。 もしもっと生産的な利用法を持つ人がいれば、元の持ち主と取引を行うことで、もっと生産的な利用法を思いついた人に財産が行くみたいなことが考えられるけど、競争なしの状態では、あらかじめ後でゴネるために買っておくみたいなことが発生しそうで、一般にどうなるかはよくわかんない
The existing system of private property interferes with allocative efficiency by giving owners the power to hold out for excessive prices.
とあるので、やっぱり「ランダムに割り当てても取引で効率的な分配になる」というわけじゃないね!
「コースの定理」からはどのような原理が導かれるだろうか? コースの定理によると、取引に一切摩擦が伴わないとすれば(取引費用がゼロであれば)、所有権がどのように割り当てられようとも、最終的にはパレート効率的な結果(資源配分)がもたらされることになる。しかしながら、現実の取引には様々な摩擦が伴う。そこで、各種の摩擦を原因として引き起こされる非効率をできるだけ抑えるためには、所有権をどのように割り当てたらよいか、という問題が浮上することになる。例えばだが、取引費用を抑えるためにも、不完全競争に起因する各種の問題を和らげるためにも、何ものかに対して労働を付け加えた人物にその何ものかに対する所有権を割り当てる(帰属させる)のが(他の事情を一定とすると)何かと都合がいい、という場合もあるかもしれない。
取引ができないという仮定でいけば、労働を付け加えた人物は (最も、ではないにせよ) その資源の生産的な利用をできる可能性が高いから、その人に所有権を帰属するといい、と言えるかもね。取引ができる場合、どのような財産権の帰属であろうと、もっとも生産的な利用をできる人が土地を購入するから、最終的にはもっとも生産的な利用をできる人の手に渡るだろう。
無主物の権利をオークションする (もっとも大きな支払い額を払った人に渡す) とかなら効率的だと思う
まあそれだと国家相当の機関がないとできないから嫌だろうけど
貴族とかが労働せずに利益を得てずるいみたいな感情から労働所有論が出たのかもしれないけど、そもそも所有ってのはそういうもので、所有権を認めるのに労働せずに利益を得ることを認めないのはむずかしいのでは
そういう感じの理由以外に、国家が領土を所有することで無制限な政治権力が正当化されるという帰結を避けたいというのもあるだろうけど
無主物を取得するときに労働で得るというのと、その他の文脈で労働により対価を得るというのが何かしらアナロジーして見えるんだろうけど、実際のところそれって共通してないんじゃない?
フリーライダー検知のための道徳感情が作動しているんじゃないかという気がするけど、実際に労働を混ぜて無主物を取得するようにしたからといって他の所有権ルール (ランダムに割り当てるとか) に比べてフリーライダーが減るわけではないと思う (つまりここでフリーライダー検知の道徳感情が誤作動してるのでは)
desert に関する直観が作動していそう
所有権には労働のインセンティブを与えるという機能があるけど、だからって取得の条件自体に労働を入れる必要はないのではっていう
では著作権もランダムに割り当てればいい? なんか違う気がする
排除可能性がありさえすればいいなら、なぜランダムに割り当てるのではいけないのか
発明の知的財産権が会社に帰属する話があったような気がする。知的財産権が財の排除可能性を生むことだけが重要だとすると、別にそれでもいいということになるのかな。
論文ジャーナルに著作権が帰属するのとかもそれでは
それはそう合意しただけでは
情報には外部性があるから、著作権と普通の所有権を同じには扱えないのでは
人間の自然本性に基づく自然法、自然権
人間が自由な選択を本性とするから自由権が認められるべき
→ayu-mushi.icon 「である」から「べき」を導こうとしている気がする
ayu-mushi.iconやっぱりカーティス・ヤーヴィンの元ネタになってるんだなと思った
p. 72 政治家、官僚もフランツ・オッペンハイマーが言うように収入を追求している。平和的、生産的な「経済的手段」で行うか、強制的、収奪的な「政治的手段」によって行うかの違いに過ぎない。
政府アクターも利己的と見ることが大事みたいな
何かしら国家の正統性を承認するためにイデオロギーが必要とされているみたいな話
自発的隷従論
昔は宗教が国家の支配を正当化していたが、現代では知識人が科学という形で国家の正統性を与えている
"court intellectuals"、御用学者?
「科学的専門家」、計画者、経済学者、national security manager による支配
ayu-mushi.iconヤーヴィンのフォーマリズム宣言で、「何が暴力とみなされるかを決めるために所有権が必要」とあったが、For a New Liberty でも無危害原理 non-aggression principle に実質を与えるものとして所有権が導入されている
ayu-mushi.iconロスバードは国家に先立って所有権を決めるルールがないと、国家が誰かにニューヨーク州全体の土地を所有権を認めてしてしまえばその人が課税しても地代と言い張れるぞという話をしている。(p. 36) この帰謬法に対し、銃弾を噛んだのが、フォーマリズム(「新反動主義」Part. 3 フォーマリズム)だろう。 だから国家に先立った所有権を決めるルールが必要ということなのだけれども
ayu-mushi.icon現状の所有者から譲渡の系列をたどって最初に正当な無主物取得を行った人にたどり着くということが現に概ね成り立っているのでなければ自然権的リバタリアニズムは事実上成立しなそう。
新しい無主物取得のルールが仮に倫理的に正しかったとしても、世界の多くの資源は概ね取得が行われてしまった後なのでどうしようもない
そのような場合正当な取得者に返還を行うべきということになるかもしれないが、正当な所有者が誰だったかという認定のためには政府を使うしかなさそうであり、小さな政府と整合しなくなる (厳密には自然権論としてのリバタリアニズムが必ずしも小さな政府を導くわけではないということかもしれない)
なので仮に政府が所有権の distribution をかき混ぜまくって全員が盗人という状態にされるとどうしようもなくなりそう
いや、これはノージックの立場 (歴史的権限原理) の問題で、ロスバードやデイヴィッド・フリードマンだと、無主物取得まで譲渡の系列をたどっていくだけじゃなくて「物は作った人が手に入れる(原材料の所有権がそのまま継承されるだけではない)」という以下の話の要素が元々入っているので、ロスバードはこの問題を回避してる
質量保存則が成り立ってる世界では、「作ったものはその人のもの」といっても原材料の所有権がどうなのか (他人のものを加工して自分のものになることがあるの?) っていう問題が生じるので譲渡系列を遡って正当な初期取得にたどり着くかっていうノージックの歴史的権限理論の方がいいように見えるけど、この問題を考慮すると、ロスバードの所有権論の方がいい面もある
でもノージックも、人は自らの才能を所有していてその産物への権利を有するみたいなことを言ってるっぽいね。単に譲渡系列が初期取得までたどり着けるかだけで考えてるわけじゃないのかな。
自分の生み出した価値への権利を持つ
"earned"
労働価値説
desert に基づく正義論との関係
「人は貢献に見合った報酬を受け取ることに値する」というような考え
知的所有権の擁護者は財産権の基準として希少資源の先占ということよりも創造と労働のほうに焦点を置く。そのため創作者の労働に「報いる」ことの重要性を過度に強調してしまう。それはアダム・スミスの間違った労働価値説が、マルクスのより深く誤った共産主義的搾取観につながったのとよく似ている。上で示したように、アイン・ランドにとって知的所有権とは、ある意味において、生産的な仕事つまり労働への報酬なのだ。ランドと他の自然権論的知的所有権擁護者は、混合的な自然権を採用しているように思える。すなわち、時間と努力を投資する人は報われなければならない、あるいはその努力から利益を得なければならない、といった功利主義的合理化である。(たとえばランドは、遠い子孫は先祖の作品を創造したわけではないために報酬を受けるに値しないという論拠をもって、永久的な特許権と著作権に反対した。)
ロックの前には、難題が立ち塞がっている。ロックがどうにかして切り抜けようともがいた難題――私の所有物ではなかった何ものかに「私の労働」が付け加わったとしたら、それは一体誰のもの?
「私のもの」だとすると・・・、「私の労働を混ぜ合わせる」ことによって、私の所有物ではなかった何ものかを横取りする、ということになるのでは?
「私のもの」ではないとすると・・・、何ものかに付け加えられた「私の労働」がその持ち主(所有者)たる私から奪い去られることになるのでは?
物の持つ値段がほとんど原材料ではなく付加価値によっていたとすると※、ずっと昔に原材料が正当でない仕方で移転していたとしても、大部分の付加価値を加えた人の多くに正当な譲渡系列にたどっていける限りで問題がない、みたいな応答ができる?
※ 参考: デイヴィッド・フリードマン『自由のためのメカニズム』
現行法がそうなってますね:
他人の動産に工作が加えられた場合(加工)には、その加工物の所有権は原則として材料の所有者に帰属する(民法第246条1項本文)。ただし、工作の結果によって生じた価格が材料の価格を著しく超えて高価になった場合は、加工者がその加工物の所有権を取得する(民法第246条1項但書)。
この理論だとバンクシーはおよそあらゆるものを奪う能力がある可能性
動産だけど
何らかの個人にとって重要だが値段が低いものに対し加工して値段を上げると奪えるという帰結があるのでは
所有権に度合いみたいなのを導入して原材料が仮に他人のものだとしても原材料に対して上がった価格のぶんは加工者の所有権が追加されるみたいにするのかな?
自然権論なのに価格みたいな概念が出てくるのは不思議な感じになってしまうけれど
「政府」の起源をcoordinate(外部性への対処など)に置く仮説とエリートによる搾取に置く仮説について、
ティグリス=ユーフラテス川の流路変更という「自然実験」を通して検証。
マレー・ロスバード、フランツ・オッペンハイマー、マンサー・オルソン (中国の軍閥を国家形成のモデルと考えた) が支持する (と思う) 国家の起源にかんする征服理論が、自然実験で経験的にテストされていた